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ひふみ神示(並び替え)㉗781-810帖

補巻月光の巻:第10帖~第39帖

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ひふみ神示(並び替え)㉗781~810帖

第十帖(七八一)

一はいくら集めても一ぢゃ。二も三も四も五も同様ぞ。〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。〇がムスビぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。

第三十九帖(八一〇)

何ごとが起ってきてもそなたは先づよろこべよ。それが苦しいことでも、かなしいことでも喜んで迎へよ。喜ぶ心は喜び生むぞ。人民よろこべば神よろこぶぞと申してあろが、天地はれるぞ。輝くぞ。そなたは先ばかり見てゐるぞ。足で歩くのぢゃ。足もとに気つけねばならんぞよ。そなたは自分ひとりで勝手に苦しんで御座るなれど、みなが仲よう相談なされよ。相談結構ぢゃなあ。相談して、悪いことは気つけ合って進んで下されよ。

第十一帖(七八二)

病むことは神から白紙の手紙を頂いたのぢゃと知らしてあろう。心して読めよ。ありがたき神からの手紙ぞ。おろそかならん。

腹八分、二分は先づささげよ。運ひらけるぞ。病治るぞ。

第三十八帖(八〇九)

はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。よろこびは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。かなしみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりではミにつかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ。二月一日。

第十二帖(七八三)

逃げ道つくってから追わねばならん。そなたは相手の逃げ道をふさいでギュウギュウ追ひつめるから逆うらみされるのぢゃ。逆うらみでも恨みは恨みの霊団をつくり出すぞ。

悪を抱けよ。消化せよ。浄化せよ。何も彼も太神の許し給えるものなるが故に存在する。

そなたは神にこり固まってゐるぞ。こり固まると動きのとれんことになる。一度そなたのもつ神をすてるとよいぞ。すてると掴めるぞ。

第三十七帖(八〇八)

そなたのやることはいつも時が外れて御座るぞ。餅つくにはつく時あるぞと知らしてあろうが。時の神を忘れてはならんぞ。春には春のこと、夏は夏のことぢゃ。そなたは御神業ぢゃと申して、他に迷惑かけてゐるでないか。そこから改めねばならん。鼻つまみの御神業はないのであるぞ。そなたはお先まっくらぢゃと申してゐるが、夜明けの前はくらいものぞ。暗いやみの後に夜明けがくること判ってゐるであろうが、神はすべてを見通しであるから、すぐのおかげは小さいぞ。利子つけた大きなおかげを結構に頂いて下されよ。

第十三帖(七八四)

木にも竹にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿ってゐるのである。人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理。数字にも文字にも それぞれの霊が宿って居り、それぞれの能(ハタラキ)をしてゐるのであるぞ。順序が判れば初段、和に徹すれば名人。

第三十六帖(八〇七)

行は、世界中の行、誰一人のがれるわけには行かんぞ。めぐり果たしたものから、うれしうれしになる仕組。そなたの心配 一応は無理ないなれど、何処で、どんなことをしてゐても、みたま磨けてさへ居れば、心配なくなるぞ。心配は、磨けて居らぬ証拠ぞ。そなたはものに不足するとこぼして御座るなれど、ものに不足するのは、心に足らぬ所があるからぞ。心いたれば ものいたるぞ。何ごとも神の申す通り素直になされよ。素直結構ぢゃなあ。

第十四帖(七八五)

流れ出たものは又元にかえると申しても、そのままでは帰られんのであるぞ。天から降った雨が又天に昇るには、形をかえるであろうが、この道理をわきまえんと、悪かみかかりとなるぞ。

それはそなたの自己慾から出てゐるぞ。自己慾もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。浄化して大き自己の慾とせよ。自分のみの慾となるから弥栄えんのぢゃ。弥栄えんもの神の御心に逆行。

自分で判断出来ることを何故にきくのぢゃ。神にきけば神に責任をきせるのと同様ぞ。人間の悪いくせぞ。出直せよ。

第三十五帖(八〇六)

化物に化かされんよう、おかげ落さんようにして下されよ。よいことを申し、よい行をしてゐても、よくない人があるのぢゃ。よくないことも御用の一つではあるが、そなたは未だそれを消化する程の所まで行ってゐないぞ。小学生が大学生のまねしてはならん。そなたはまだ慾があるぞ。慾を、小さい自分ばかりの慾をすてなされ。そしてまことの大深慾になりなされよ。その気持さへ動いてくれば、何事も見事成就するぞ。

第十五帖(七八六)

与えることは頂くことぢゃと申しても、度をすぎてはならん。過ぎると、過ぎるものが生れて、生んだそなたに迫って来るぞ。

第三十四帖(八〇五)

かみかかりはよしなされよ。そなたは学に囚われて御座るぞ。科学を越えて神の学に生きて下されよ。そなたは自分で自分の首をしめるようなことをして御座るぞ。自分で勝手に小さい自分の神をつくってゐるぞ。一度その神をすてなされ、固く抱きしめたり、とぢこめてゐるから判らんことに行きつまるのぢゃ。判りたか。我(が)と判らん我(が)を気つけなされよ、今一息と云ふところぞ。

第十六帖(七八七)

五十九柱と申してあるが、その中の九柱はかくれた柱ぢゃ。ぞ。ぞ。この九柱は〇ぞ。心得なされよ。現われの五十柱のかげの、かくれた九柱、心して大切申せよ。

真直ぐに真上に神をいただくと申すことは、上ばかりではないぞ。真下にも横にも前後にも立体三六〇度に真直ぐに神を頂かねばならんと云うことぞ。神人交流の第一歩。

第三十三帖(八〇四)

まことから出たことは誰のねがひも同様。心配せずにドシドシと進めて下されよ。若し行き詰ったら省みよ。行き詰った時は大きくひらける時ぢゃ。ぢゃと申して ひとこころで急ぐでないぞ。急ぐと道が見えなくなってくるぞ。そなたの考へて御座ることは自己中心でないか。われよしの小さいわれよしではならん。大きなわれよし結構ぞ。ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん。大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、教へたりしてゐるが、それもならんぞ。総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか。何故に神示を読まぬのぢゃ。

第十七帖(七八八)

そなたの仕事、思いつき結構であるが、神の御意志を頂かねば成就せん。神と申しても、そなたが勝手にきめた神や宗教で固めた制限された神ではないぞ。判っただけでは駄目ぞ。行じねばならん。生活しなければならん。芸術しなければならん。

第三十二帖(八〇三)

世界連邦と申してゐるが、地上世界のみの連邦では成就せん。片輪車で、いつまでたってもドンテンドンテンぢゃ。心して下されよ。何故に霊界、神界をひっくるめた三千世界連邦としないのか。いらぬ苦労はせぬものぢゃ。

第十八帖(七八九)

現実的には不合理であっても、不合理にならぬ道をひらくのが、霊現交流の道であり、立体弥栄の道、行き詰りのない道、新しき世界への道である。平面のみではどうにもならない時となってゐるのに、何して御座るのか。黒船にびっくりしては間に合わん。

第三十一帖(八〇二)

足のうらをきれいに掃除なされよ。外から見えん所がけがれてゐるぞ。日本の国よ、そなたも同様、世界よ、そなたも同様ぞ。イヅモの神の社をかへて竜宮の乙姫(理由空云の音秘)様のお社を陸(理空)につくらねば、これからの世はうごきとれんことになるぞ。一切が自分であるぞと云うことは例へでないぞ。そなたは、食物は自分でないと思うてゐるが、食べるとすぐ自分となるでないか。空気も同様、水も同様ぞ。火も同様、大空もそなたぞ。山も川も野も海も、植物も動物も同様ぞ。人間は横の自分ぞ。神は縦の自分ぞ、自分を見極めねばならん。自分をおろそかにしてはならん。一切をうけ入れねばならんぞ。一切に向って感謝しなければならんと申してあろうが。三十一年一月三日。

第十九帖(七九〇)

釈迦、キリスト、マホメット、其の他、世界の生命ある教祖及びその指導神を、み光の大神様とたたえまつれと申してあろが。大神様の一つの現はれぞと申してあろうが。何故にみ光の大神様として斎きまつらんのぢゃ。宗教せぬのぢゃ。其処にひかり教会としての力が出ないのぢゃ。人民のうきせになやむを救うのはオホカムツミの神であるぞ。この能(ハタラキ)の神名わすれてはならん。このほうはオホカムツミの神とも現われるぞと知らしてあること忘れたのか。

第三十帖(八〇一)

心のいれかへせよとは新しき神界との霊線をつなぐことぞ。そなたは我が強いから、我の強い霊界との交流が段々と強くなり、我のむしが生れてくるぞ。我の病になって来るぞ。その病は自分では判らんぞ。わけの判らん虫わくぞ。わけの判らん病はやるぞと申してあるが そのことぞ。肉体の病ばかりでないぞ。心の病はげしくなってゐるから気付けてくれよ。人々にもそのことを知らせて共に栄えてくれよ。この病を治すのは、今日までの教では治らん。病を殺して了ふて、病をなくしようとて病はなくならんぞ。病を浄化しなければならん。悪を殺すと云う教や、やり方ではならんぞ。悪を抱き参らせて下されよ。

第二十帖(七九一)

大奥山と教会とをまぜこぜしてはならん。教会や其の他の集団は現われ、大奥山はかくれぢゃ。大奥山はこの度の大御神業にゆかりのある神と人とを引きよせてねり直し、御用に使う仕組。みて御座れ、人民には見当とれんことになるぞ。

第二十九帖(八〇〇)

モト(母答)を正さねばならん、間に合わんことになるぞ。心の改心すれば、どんなおかげでもとらすぞ。

幽国(がいこく)は火の雨ぢゃなあ。世界一度に改心。

第二十一帖(七九二)

大奥山から流れ出た宗団はひかり教会のみでないぞ。いくらもあるのぢゃ。出てくるぞ。故に大奥山に集まったものが皆ひかり教会員ではない。それぞれのミタマの因縁によって色々な集団に属する。この点よく心得なされよ。大奥山はありてなき存在、人間の頭で消化されるような小さいしぐみしてないぞ。大奥山だけに関係もつ人もあるのぢゃ、囚われてはならん。三千世界を一つにまるめるのが この度の大神業ぞ。世界一家は目の前、判らんものは邪魔せずに見物して御座れ。神の経綸 間違ひなし。

第二十八帖(七九九)

厄も祓はねばならんが、福も祓はねばならん。福はらひせよと申してあらうが。厄のみでは祓ひにならん。福のみでも祓ひにならんぞ。厄ばらひのみしたから今日の乱れた世相となったのぢゃ。この判り切った道理が何故に判らんのか。悪を抱き参らせよ。善も抱き参らせよ。抱くにはにならねばならんぞ。

第二十二帖(七九三)

産土さまによくお願いなされよ。わすれてはならんぞ。宗教にこり固まって忘れる人が多いぞ。他の神を拝してはならんと云う、そなたの信仰はそれだけのもの、早う卒業結構。

第二十七帖(七九八)

はらひは結構であるが、厄はらひのみでは結構とはならんぞ。それは丁度、悪をなくすれば善のみの地上天国が来ると思って、悪をなくすることに努力した結果が、今日の大混乱を来したのと同じであるぞ。

よく考えて下されよ。善と申すも悪と云うも、皆悉く大神の肚の中であるぞ。大神が許し給へばこそ存在してゐるのであるぞ。この道理をよく会得せよ。

はらふと申すのは無くすることではないぞ。調和することぞ。和して弥栄することぞ。

第二十三帖(七九四)

他の宗教に走ってはならんと云う宗教もそれだけのもの。判らんと申してもあまりであるぞ。

同じ所に天国もあり、地獄もあり、霊界もあり、現実界もあり、過去も未来も中今にあるのぞ。同じ部屋に他の神や仏をまつってはならんと申す一方的なメクラ宗教にはメクラが集まるのぢゃ。病気が治ったり運がひらけたり、奇跡が起ったりするのみをおかげと思ってはならん。もちと大き心、深い愛と真の世界を拝めよ。とけ入れよ。浄化が第一。

金が好きなら金を拝んでもよいのぢゃ。区別と順序さへ心得て居れば何様を拝んでもよいぞ。金を拝めば金が流れてくるぞ。金を拝み得ぬイコヂさが そなたを乏しくしたのぢゃ。赤貧は自慢にならん。無神論も自慢にならん。清貧はまけおしみ、清富になれよと申してあろうが。清富こそ弥栄の道、神の道、大大神のマコトの大道ぞ。

第二十六帖(七九七)

現状を足場として進まねばならん。現在のそなたのおかれてゐた環境は、そなたがつくり上げたものでないか。山の彼方に理想郷があるのではないぞ。そなたはそなたの足場から出発せねばならん。よしそれが地獄に見えようとも、現在に於てはそれが出発点。それより他に道はないぞ。十二月三十一日。

第二十四帖(七九五)

怒ってはならん。急いではならん。怒ると怒りの霊界との霊線がつながり、思わぬ怒りが湧いてものをこわして了ふぞ。太神のしぐみに狂ひはないぞ。皆々安心してついて御座れよ。

第二十五帖(七九六)

食物は科学的栄養のみに囚われてはならん。霊の栄養大切。

自分と自分と和合せよと申してあるが、肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ。

高い心境に入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮ぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。 山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。

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